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ジョージ・マイケルが53歳で死去 今年の最後でまたも大きな才能が消える

クリスマスの日、ジョージ・マイケルが53歳で亡くなったと言う事で、今年は年明けから洋楽界の訃報ラッシュだったけど、最後の最後で、またスターが若くして亡くなる事になった。

ジョージ・マイケルの心からご冥福をお祈りします。

BBC 元「ワム!」の英人気歌手ジョージ・マイケルさん死去 53歳
amass ジョージ・マイケルの訃報を受け、様々なミュージシャンらが追悼コメントを発表
 

追記: ナイル・ロジャースのマーク・ロンソン宛てのTweetが衝撃的...

(ヘイ、マーク、こんな事は狂ってるとしか言いようがない。僕は23日の朝まで彼の家に居たんだよ。本当にクレイジーすぎる...)

(ジョージ・マイケルに合掌。君は間違いのない才能だった。心からの哀悼をマイケルとその家族のデビッド、チームに捧げます)

ナイルが言う事では、ジョージ・マイケルに直接会っていたわけではなく、シックの仕事で23日にロンドンに滞在し、その時にジョージのスタッフ達とその家で仕事をしていたそうで、ナイルが相当心を痛めているのが...
(追記終了)


ジョージ・マイケルと言う人は、語るのにあまり得意な音楽ジャンルの人ではないけど、彼について書ける限りの事を書いてみたいと思います。

 

ジョージ・マイケルの歌の上手さ

先日、ジョージのパリオペラ座での公演の録画を見る事になって、何だか見た目はごっついおっさんになっていたけど、歌は間違いなく上手い。

(YouTubeの動画をお借りしていたけど、それが見れなくなったので、同じ録音のSpotifyのライブを置いておきます)

このパリオペラ座でのオーケストラとの共演(2012年収録)は、多くの人が知ってるワムや80~90年代のソロ活動の感じとはかなり違うけど、スウィングが歌えたり、彼のボーカルと言うのが、決してポップスと言う枠に留まる事なく、どれだけ高い完成度にあったのかを知るのに十分の筈で...。

ジョージ・マイケルのヴォイス・トレーナーは、クイーンの故フレディ・マーキューリーと同じ人...と言う話を聞いた事がある。フレディが亡くなった直後の追悼コンサート(92年)でのクイーンのメンバーとジョージ・マイケルの共演は伝説的で、稀代のヴォーカリストであったフレディの歌をここまで歌える人は居ないように思える。

映像を見ないで聞いてると、まるでフレディが帰って来たんじゃないか...と思えるほど、ダイナミックな声。

だから、ジョージ・マイケルについて、伝説的なロックバンドとか、そういうのに組みしていたら、間違いなく今以上の伝説的ヴォーカリストになってたように思う事もある。今では、多くの人が思い出すのは「ラスト・クリスマス」や「ケアレス・ウィスパー」だけで、本当のところ、彼の実力とは、そういう曲に留まる事のないダイナミックさと技巧を持ち合わせていたヴォーカリストのように思う。
 

アレサ・フランクリンとのデュエットでビルボード1位になる

ワムで名前を売った後、80年代後期には、比類無きクイーン・オブ・ソウルであるアレサ・フランクリン大先生(ローリング・ストーン誌の選ぶ「歴史上最も偉大な100人のシンガー」で第1位)とのデュエットでビルボード1位のヒットを飛ばし、アレサのお眼鏡にかなった事を証明する事になった。(この曲のプロデュースは、ホイットニーのデビュー・アルバムのプロデュースも手掛けたツイン・バスドラの名ドラマー、ナラダ・マイケル・ウォールデン。日本では高中正義先生のサウダージをプロデュースした事で有名)

こちらは2012年に亡くなったホイットニー・ヒューストンとの2000年のデュエット。

この二人共が既に居ない...とか信じられない。ホイットニーもジョージも63年生まれで、早く亡くなり過ぎ...
80年頃に活躍していたスーパースター、マイケル・ジャクソンやプリンスを始め、皆、居なくなってる事に寂しいやら悲しいやら、残念な思いがしてならない...

ジョージ・マイケルは、私生活では、ゲイであることをカミング・アウトしていたり、薬物で検挙された過去もあったようだけど、この辺を気にしていたら音楽なんて聞いてられなくなるから、薬物は絶対いけない事だとしても、自分は全然気にしない。大事な事は、どれだけのジェニュインであるか?と言う事で。
 

20歳でセルフ・プロデュースで80年代の音楽界に斬り込んだ天才

ワムでのヒット曲は沢山あるけど、1つあげるなら、個人的にはクラブ・トロピカーナか? 後のマット・ビアンコのサウンドに繋がりそうな曲。

この曲(83年)の時は、ジョージ・マイケルは20歳だったそうで、実はこの曲が収録されてるワムのデビュー・アルバムでは、片割れのアンドリュー・リッジーと殆ど曲を書いてて、ジョージ自身がワムを世に送り出したスティーブ・ブラウンと共同で殆どをプロデュースしてる所が驚き。

このアルバムが出た80年代と言うのは、名プロデューサーの時代...と言って過言じゃない時代で、例えば、クインシー・ジョーンズ(マイケルの「スリラー」)、デビッド・フォスター(シカゴの「素直になれなくて」)、ジョルジオ・モロダー(ブロンディの「コール・ミー」)、トレヴァー・ホーン(イエス「ロンリー・ハート」)等々...忘れてる大物ももっと居るかもしれないけど、プロデューサーの名前だけで売れるか?売れないか?が決まるような時代。

そういう中で、若干20歳の青年がセルフ・プロデュース、殆どの曲を自作して、この時代のシビアなヒットチャートに斬り込んで行くとか...本当に驚くべき才能だったんだ...とも思う。

(苦言を書きたくないけど、この20歳が作ったクラブ・トロピカーナの完成度を考えた時、今の日本の邦楽やってる人とか、もう少し勉強してほしい...とマジで思う。)

ワムのデビュー・アルバムには面白い曲が入っていて、70年ソウルのミラクルズの超名曲ラブ・マシーン(76年 ビルボード1位)。ジョージがなぜこの曲をこのアルバムで取り上げたのか、彼の好んだ音楽シーンを垣間見る事が出来るように思える。

(Sptifyのプレイヤーの6曲目)

20歳だからと言って決して軽い作りではなくて、ミラクルズのオリジナル版と比べても、オリジナルに忠実は作りで、これは原曲へのオマージュと受け取れる感じもして、もしこの路線をジョージが愛していたとしたら、その数年後にアレサとデュエットしてビルボード1位になったとか、マジで夢のような話だった筈で...

いかん、個人的に70年代のソウル&ファンクを敬愛してるから、そっちに話が行ってしまってすみません。

多くの人がクリスマスの名曲と仰ぐ「ラスト・クリスマス」もジョージ・マイケルの作詞&作曲のセルフ・プロデュース。20歳の時から、印税で幾ら稼いで来たんだろう?とか、老婆心ながら考えてしまったりもする。

しかし、こうやってジョージ・マイケルの事を振り返ってみると、彼はすごい才能だった...と心から思う。53歳なら、まだまだ歌えただろうし、本当に惜しい人が行ってしまった...と言う感が強い。

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About Makoto

TESシリーズ(Skyrim、ESO等)のファンサイトを運営。しかし、本性は音楽geek(soul,Funk& Jazz他)、中学2年の頃からプログレ・バンドで鍵盤系をやってました。Wordpressは2007年からの古参。 Home:  Rolling Sweet Roll

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