コンテンツへスキップ

映画「野火」(2014)を見たよー(殆どホラーにも思えたものの…)

今日、昼飯を食べながらNHKプライムを見ていて、この時間はいつもそこで映画をやっているけど、今日は大岡昇平原作・塚本晋也監督の「野火」だった。

第二次世界大戦中のフィリピン・レイテ島の日本兵の話で、そう言えば、今日の8月6日は第二次世界大戦時に広島に原爆投下された日で(合掌)、終戦記念日が近づくと、戦争を題材とした映画やドラマが多数放送されたりする。

しかし、この映画は正直に少しキツかったかな...(苦笑)

まだ仕事があるって言うのに、映画見た後に考え込んじゃって、なかなか仕事に集中するのが難しくなった位。

 

「野火」 究極の極悪環境に置かれると、人間はどうなるのか?

今回見た「野火」と言う映画。

はっきり言って、自分はマジで怖かった。

映像もかなりグロい部分があって、直視も難しいような場面もあったけど、それより、人間は究極の状態に追い詰められると、一体どうなるのか? そういう精神的な部分に訴えて来るのが重かった。


 

ここからは、少しだけネタバレみたいな事も書いているから、それを知りたくない人は読まないで下さい。

↓ ↓ ↓ ↓ ↓
 
 

結核で肺をやられたかもしれない日本兵の主人公は、軍でも軍病院でも邪魔者扱いになり、食い物も殆どないような状態でフィリピンの大地に投げ出される。既にレイテ島の日本軍の状態は殆ど劣勢になっていて、現地での食料も何もかも不足しているような状態。

行き場を失った主人公は、島を徘徊しながらフィリピンの教会で初めての人殺しを体験し、フィリピンの原野を彷徨ってる内にやっと同僚と言うべき日本兵の3人組に会う。そこで、パロンポンと言う場所に行けば、収容船が来て、日本に帰れるかもしれないと聞かされる。

その3人の仲間とパロンポンを目指す事になるけど、そこからも苦難の連続。湿気に満ちたジャングルを抜けて行く途中、アメリカ軍は、その地の日本兵の一掃でも企んでいるのか、安心できる場所すら無い。

それでも多くの日本兵がパロンポンを目指しているようで、その途中、既に亡骸になってしまった同僚、殆ど死にかけている同僚...色々なものを目にして行く事になる。

そして、ある峠道を越えればパロンポン...と言う所まで来て、しかし、その峠道の前の平原は、日本兵の死骸に埋め尽くされている。

一体そこで何が起こったのか...しかし、それはそこが非常に危険な場所である事を示唆する光景でもあり、そこを昼間に横切るとか「殺して下さい」と言っているようなもの。主人公とその仲間は、夜の暗がりを待つ事になる。

夜になり、身を隠していた日本兵の多くが敵に見つからないように匍匐前進でその平原を進もうとするけど、何かを待っていたかのように一斉に照明が日本兵を照らし出し、そこに無限に思える量の機銃が撃ち込まれる。

この場面はマジでグロすぎて、自分も顔を画面から背けた位だった

飛び散る肉片、内蔵、脳みそ...生きてられるのが奇跡なほどの状態の中で、主人公は殆ど恐怖から動けない状態が幸いしたのか、そこで生き延びてしまった。

(いや、もしかしたら、死んでしまった方が楽になったかもしれない...とか、個人的には何度か頭を過ぎった)

そして、生き延びたはいいものの、今度はひどい飢えとの戦い。安心して眠れる場所すら無い。どこかしこもハエやウジが湧き、やっと生きていた仲間に再会したと思ったら、そういう環境で仲間は殆ど正気を失っている。

これは自分個人の感想だけど、地獄と言う場所が本当にあるなら、こういう場所なんじゃないか...と何度も頭を過る。前に寺のお坊さんが「人間は生きながらにして地獄に落ちる事は可能なんですよ」と言っていた事があったけど、それは本当にさえ思えて来る。

しかし、何をしたら、どういう因果で、生きながらにしてこんな地獄に辿り着くのか...。スーツや立派な軍服を着たお偉いさんのずっと下で、外国の土地でこんな地獄を見てた人達が居るとか、どう理解すればいいんだろう...。

そして、主人公は、再びもう一人の日本兵の知り合いに出会い、殆ど正気も失い掛け、餓死しそうなところを救われる。この映画の唯一のほっとした場面だった。

その知り合い二人は「猿を狩る」と言う事で飢えをしのいでいたけど、しかし、その猿の正体とは...。そこでの真実と言うものは、再び重い恐ろしい事だった。

「生きる」と言う厳しい現実の中で、疑心暗鬼なのか、それとも、それは真実なのか。助け合いながらも、仲間が信じきれない不安までもが主人公にまとわりついて来る。

最後は......(マジかよ.........)

それは伏せておくけども、食事中の人は絶対この映画を見ない方がいい

(前にESOの記事にも書いたけども、自分にとっては最も苦手な話の部類)



 

この映画の原作は、1952年の出された大岡昇平の小説で、アマゾンの原作のレビューを見たら、原作も結構きつい内容である事を知った。原作も読んでみたいと思ったけど、映画から受けた衝撃が大きすぎて、原作を読むには自分にはもう少しクールダウンの時間が必要に思えた。

自分だったら、こういう時にどうするのか?

この映画は、戦争の悲惨さを伝える...と言うより、すべてに見捨てられ、頼るところもなく、不衛生の中で孤独と餓えに苛まされ、信じられるものも何も無い...そういう究極の場所に人間が置かれるとどうなるのか? それを絶えず自分に問いかけて来るものだった。

いや、この映画で日本兵達が置かれた惨状も、戦争の副産物である「大きな悲劇」の一つなんだけど、戦争で人間を破壊するものは、決して銃や兵器だけではない事も思い知らされた。
 

余談:自分の婆ちゃんから聞いた本当の戦争の話

ちょっとクールダウンも含めて。終戦記念日が近いと言う事で、余談だけども。

自分は終戦のずっと後に生まれて、戦争の悲惨さやそれが巻き起こした悲劇とか、当然のように小説とか映画・ドラマでしか知らない。

しかし、自分の婆ちゃんは岡山県出身で、そこが造船所に近かった事から空襲とか、防空壕とか、B29が来る時の窓ガラスの振動とかをマジで体験している一人。その婆ちゃんから戦争の話はよく聞いた。

婆ちゃんは終戦の時は10歳位だったらしいけど、婆ちゃんの育った家は母一人・娘一人の家で(この家は構成は単純でも、実に複雑な事情があって、本当の親子でありながら婆ちゃんはその母を「叔母さん」と親戚に言われて預けられたと言う。だから、長年この母親を本当の親とは知らなかった。)、子供の時の婆ちゃんが一人で留守番をしていると、痩せこけた初老のおっさんが来て

「お嬢ちゃん、なんか食べ物は無い?」と言って来たらしい。

戦時中の母一人・娘一人の家に他人に食べ物を分ける余裕なんてとても無くて、それでも、このおっさんに何か食わせないと死んじゃうかもしれない...と子供ながら思い、タクアンが漬けてあった樽を開けて、タクアンの尻尾をそのおっさんに差し出したらしい。タクアン本体をあげると、継母と思っていた母親に間違いなく怒られる...と思ったからだと言っていた。

そしたら、そのおっさんは、子供の婆ちゃんの手からタクアンの尻尾を奪い取るように取って、それを口の中に押し込むと、急に泣き出して「お嬢ちゃん、ありがとう、ありがとう」と言って去って行ったと言う。

翌日、婆ちゃんの家の近くの線路で、誰かが飛び込み自殺した...と言う話が広まって、婆ちゃんは興味本位でその現場近くに見に行った。まだその死体が線路の横にあって、その顔を見たら、昨日、婆ちゃんがタクアンの尻尾をあげたおっさんだったと言う。

それは長らくの婆ちゃんのトラウマになったと言う。こんな事になるなら、タクアン本体とご飯位、食べさせてあげればよかった...とか子供ながら後悔したと言う。周りの大人は、金や食べ物に困っての自殺...と言っていたそうだけど、この話に戦争は直接関係しないにしろ、当時の日本の戦時中の貧しさとか悲惨さとかを物語る話として、妙に心に残ってしまう事になった。

当時の婆ちゃんの夢は、とにかく腹一杯美味しいものを食べる事で、10歳の時に終戦が来て、小学校の校庭に集められて昭和天皇の玉音放送をラジオで聞く事になった。先生や大人はそれを泣きながら聞いていたと言うけど、子供の婆ちゃんは不謹慎にも下を向いてほくそ笑み、「これで美味しいものが腹一杯食べられる」とマジで思ったと言う。

当時は本当に食べ物が無かった...と言うし、婆ちゃんは栄養失調の子供時代を送り、普通の人より血管が細い...とか、その影響をずっとひきずり続けた...と言っていた。

だから、婆ちゃんは今でも美味しいものには目が無くて、顔見ると「美味しいものを食べに行こう」って言うし、80歳を過ぎた今でも読書が趣味で、歴史書ばかり読み漁って全くボケる様子もなく元気に暮らしている。

...そう言えば、八つ墓村の題材になった実話の事件も岡山で起きて、婆ちゃんが2-3歳の時にその事件が起きた...とか聞いた事もあった。小さい時の事だから当時何があったのかは覚えてないけど、大人がそれをたまに口にする事があった...と言う事だった。婆ちゃんから聞ける話は、いつも自分にとっては非常に興味深いものだったりする。
 

余談2: 婆ちゃんから貰ったピアノも戦争の名残なのか?

最後に。自分が宝物にしている今では作られていないEastein(イースタイン)と言うピアノは、婆ちゃんから貰ったものだった。

このピアノは日本の元軍人の人が立ち上げた会社で作られたものだったけど、このピアノが作られた”云われ”...と言うのも、戦後、軍事で培って来た技術を今度は文化に役立てよう...と言う方針で作られたピアノだったと聞いている。

(実は婆ちゃんはこのピアノをずっとドイツのものだと勘違いしていて、自分にくれた時はそう説明していたけど、ピアノの先生がこのピアノの本当の素性を教えてくれた。婆ちゃんにはこういう勘違いがかなりあるw)

しかし、このピアノは自分の母親からは厄介者扱いされて来て、鍵盤も象牙でブリュートナーを模した作りの良いピアノなものの、アップライトでありながらピアノ本体がかなり大きくて、ピアノ専門の運送屋にも運送屋二人では運べないピアノと言われた。

今自分たちが住んでいるマンションの上階にこのデカいピアノを運ぶのは無理とも言われて、今はこのピアノを近いパートナーの実家に置かしてもらっているけども、その時もデカイ・重いを理由に床の補強工事が必要になったほどだった...w(パートナーの両親にはマジで感謝している)

今、このピアノのオーバーホールを考えているんだけど、大金が掛かりそうだし(普通のアップライト・ピアノの数台分)、知り合いからもそろそろ手放してもいいんじゃない?とか言われるけど、それは個人的にはかなり難しい。

自分はこのピアノと子供の時からずっと一緒に過ごして来て、自分の中では擬人化されるくらい生活の一部であったし、子供の頃、辛い事とか悲しい事があるとなぜかいつもこのピアノの前に座っていた記憶さえある(ピアノに慰めて貰っているような感覚だったのかもしれない)。

話の収集がつかなくなったから、今日はこれでお終いw

公開日 カテゴリー Moovie, 時事タグ ,

About Makoto

TESシリーズ(Skyrim、ESO等)のファンサイトを運営。しかし、本性は音楽geek(soul,Funk& Jazz他)、中学2年の頃からプログレ・バンドで鍵盤系をやってました。Wordpressは2007年からの古参。 Home:  Rolling Sweet Roll

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)