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シンセサイザー奏者・作曲家の冨田勲氏が84歳で亡くなる

海外の音楽界でも訃報続きですが、日本の音楽界の巨匠も逝ってしまいました・・・
子供の頃から大尊敬する冨田勲先生が亡くなったと聞き・・・合掌。
心からご冥福をお祈りします。

作曲家の冨田勲さん死去(NHK)

先々月、キース・エマーソンが亡くなり、その自分の記事でも富田先生の話しに触れる事になりました。まさかその2ヶ月後に先生まで逝ってしまう・・・とか、先生の近況を知らない誰に考えられたのか・・・

キース・エマーソン、自殺って・・・

70年代の音楽事情をあまり知らない人が聞くと、ELPのキース・エマーソンと富田先生に一体何の関係があるのか謎かもしれないけど、二人ともがシンセサイザー奏者の大先駆者で、Wikipediaの記述にもこうあります。

1969年に、大阪万博の東芝IHIのパビリオンの音楽を録音するため、大阪に滞在した。訪れた輸入レコード店で、モーグ・シンセサイザー (MOOG III-C) を全面的に用いて作成されたワルター・カーロス(現在はウェンディ・カルロス)の『スイッチト・オン・バッハ』と出会い、これこそ求めているものだと直感した。1971年秋頃、モジュラー式のモーグ・シンセサイザー(モーグIII-P画像)を日本で初めて個人輸入した。非常に高額な楽器であり、金銭面で苦労したという。

当時、楽器として輸入しようとしたところ、日本ではシンセサイザーがほとんど認知されていなかったので、税関から軍事機器(むしろアナログコンピュータそのものであろう)と疑われ、税関の検査場で数ヶ月間止められ、しかもその間の保管料を請求されたといったエピソードがある。楽器とは関税率が異なる精密機器として扱われそうになったので、楽器であることを証明する必要があったとされる。証明に時間がかかったのは、シンセサイザーの演奏写真を送ってくれと頼んだのに、いつまでも来なかったからで、証明に使われたのはキース・エマーソンの演奏写真。

モーグには説明書が付属していなかったので、使い方が全くわからずに苦戦し、「高いだけの鉄くずを買ってしまった」と後悔している[6]。 その後、自宅にマルチトラックレコーダーも備える電子音楽スタジオを設置し、電子音による管弦楽曲の再現を試行錯誤しながら、数々の作品を作曲・編曲した。この時期から映像音楽作品にもシンセサウンドを多く用い始めた。

これを読んでもわかる通り、富田先生は69年とかそういう時に既にシンセに魅せられた一人で(ビートルズが初来日した3年後)、今の時代、クラシックやアコースティック等の一部の音楽以外でシンセが入っていない曲を探す方が大変なくらいシンセが定番になっている事を考えれば、富田先生の先見性と言うものがどれだけすごいものだったのかを痛感します。

しかし、当時、シンセのセットが軍事機器に間違われて、差し止め食らうとか・・・そういう時代が日本にあった事が笑えます。

我が家にある富田先生の古いCDのライナーノーツ
我が家にある富田先生の古いCDのライナーノーツ

富田先生は、作曲家や編曲家としても素晴らしい仕事をされて来て、それでも、自分がシンセの話しばかりをしてしまうのは、小学生の時に富田先生のシンセでのドビュッシー作品と「展覧会の絵」を聞いて、どんだけ鳥肌がたったか(勿論、良い意味で)、その衝撃が今でも忘れられないからです。

自分がトミタ・サウンドに初めて触れた時は、既にYMOも有名だったり(富田先生は4人目のYMOとか言われてて、その音作りも携わったとかWikipeidiaに書いてある)、洋楽にもシンセを多用したものも多くなってる時代で、シンセの音とは決して珍しいものではなかったけど、それでも、トミタ・サウンドのあの幻想的な音が、当時、幼かった自分にどれだけのイマジネーションを与えてくれたのか、それが自分にとってものすごい大きな影響力であった事は、絶対否定できません。

ベルガマスク組曲 パスピエ(ドビュッシー)

展覧会の絵 プロムナード(ムソルグスキー)

先に書いた通り、自分もこれをリアルタイムで聞いて来たわけではないけど、これらは74年、75年に出されている音で、音楽の発展の歴史を知る人なら、当時、これがどれだけ画期的で驚きに満ちた音だったのか、想像する事は難しくはないように思います。

こういう世界に認められた音楽界のパイオニアが日本に居た・・・と言う事実は、本当に日本が誇るべき事で、YouTubeを見ても、富田先生の音源をアップしてる人たちは、実は海外の人の方が多いように思える事も忘れてはいけない気もします。

なぜ日本より海外でトミタ・サウンドが有名なのか、富田先生のWikipedieaにこういう記述があります。

1974年、シンセサイザーの導入から1年4ヶ月[7]を費やしたシンセサイザー音楽作品としてのデビュー・アルバム『月の光』を制作。

当時このアルバムを日本の各レコード会社にもちこんだところ、「クラシックでもポピュラーミュージックでもなくレコード店の棚に置く場所がない」などの営業的な理由ですべて断られたとされる。そののち当時の日本RCA東京出張所長(後にワーナーパイオニアレコードの社長)山本徳源に頼んで米国RCAのニューヨーク本社にテレックスを打ってもらったところ直ちに会おうという回答を貰った。米RCAレコード[8]に持ち込んで契約に成功してレコード「Snowflakes are dancing」をリリースしたところ、大好評を得て1975年1月18日付けのビルボード全米クラシカル・チャートで第2位にランキングされた(それ以前に日本人による音楽曲がビルボード誌上にランク入りをしたのは、作詞:永六輔、作曲:中村八大、唄:坂本九の「上を向いて歩こう」(米名「SUKIYAKI」)が1963年6月15日にビルボード誌で週間ランキング第1位、1963年年間ランキング第10位となって以来で、二度目のことであった)。

1974年には日本人として初めてグラミー賞にノミネートされた[9]。この快挙はNHKなど国内のマスコミによっても報じられ、米国RCAレーベルのレコードが国内に(『月の光 - ドビッシーによるメルヘンの世界』として)逆輸入されるなどによりその作品が知られるようになった。 またNARM(National Association Of Record Merchandiserers 全米レコード販売者協会)の1974年最優秀クラシカル・レコードにも選ばれた。さらに、次作の『展覧会の絵』は(1975年8月16日付けの)ビルボード・キャッシュボックスの全米クラシックチャートの第1位を獲得し、1975年NARM同部門最優秀レコード2年連続受賞し、1975年度日本レコード大賞・企画賞を受賞した。次作の「火の鳥」は(1976年3月20日付けの)ビルボード全米クラシックチャート第5位を、さらにその次作の『惑星』も(1978年2月19日付けの)ビルボード全米クラシック部門で第1位にランキングされた[10]。『バミューダ・トライアングル』では発売翌年のグラミー賞で "Best Engineered Recording"に2回目のノミネートを受けた。1983年のアルバム『大峡谷』では3回目のグラミー賞のノミネートを受けた。以降『バッハ・ファンタジー』(1996年)まで、冨田勳のアルバムはいずれも世界的なヒットを記録している。

1979年に米コンテンポラリー・キーボード誌の読者投票により“ベスト・スタジオ・シンセシスト”に選ばれた。冨田のシンセサイザー作品群は、すべての音色づくりはもちろん、全パートの演奏、録音、編集までを含めて冨田自身の一人の手による制作であり、現在のパーソナルスタジオによる音楽制作の先駆けであったといえる。

トミタ・サウンドを世に知らしめた「月の光」は我が家にもありますが(写真 英語題は”Snowflakes are dancing”)、しかし、この引用させてもらった文章を読む限り、日本の音楽界って当時から閉鎖的と言うか、海外がトミタ・サウンドを認めてくれなかったら、偉大な才能を一つ潰していたかもしれないようにも思えて来たり・・・いや、作曲家として既に有名でこれだけの人だから、いつかはシンセも認められたかもしれないけど、先見性のないこういう日本の音楽界の風潮は寂しい限り・・・

このCDは86年って書いてあるけど(レコードは74年)、親が持っていたので自分はよく覚えてない。
このCDは86年って書いてあるけど(レコードは74年)、親が持っていたので自分はよく覚えてない。

多分、今の日本だと、シンセを弾く人であっても、富田勲って誰?とか言う若い世代の人も多いのかな・・・。先生の死を機に・・・と言うのもおかしな言い方だけど、こういう偉大な音楽家が日本に居る事を知ってほしいし(なんか過去形で書きたくない)、多くの人がトミタ・サウンドに触れてくれたら嬉しいとも思ったりもします。

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